2009/08
近代造船に貢献した人たち君川 治


写真は戸田造船郷土資料博物館
 我が国最初の洋式造船の地、戸田を訪ねた。伊豆半島の付け根、西海岸で富士山を見るには絶好のポイントだ。戸田港を保護するように張り出した岬の先端に造船郷土資料博物館がある。展示室1つの小さな博物館であるが、引き上げられたディアナ号の錨が展示されており、建造に携わった7人の船大工の名前も記されている。明治になってプチャーチン提督の娘オリガ・プチャーチナが訪れて感謝の金一封を村に贈呈し、日露友好の地となっている。
 近くには「ディアナ号の錨 由来」「日本最初の洋型造船に燈火を掲げた人々」「洋式帆船建造地」「日ソ友愛の像」「上田寅吉翁の顕彰碑」など多くの記念碑が建っている。近くにはプチャーチンの宿所となった宝泉寺、日露条約交渉の行われた大行寺などがある。
 太平洋戦争の敗戦により壊滅的な打撃を受けた日本の造船業は朝鮮動乱で復興のキッカケを掴み、昭和31年には造船進水量世界一まで躍進した。技術的な面でも世界一の30万トン級スパータンカーを建造し、最新鋭の超自動化船舶(コンピュータ集中制御)も建造した。日本が洋式造船を学んでちょうど100年目であった。
 我国は四囲を海に囲まれた海洋国家であり、昔から造船技術は発達していたと思われるが、徳川時代の鎖国政策と大型船建造禁止令により造船技術の進歩はストップしてしまい、ペリーの黒船到来により「たった4杯で夜も眠れず」ということになる。
 日米和親条約を締結すると、その後を追うようにロシア提督プチャーチンが下田にやってきた。運悪く伊豆大地震が発生し、津波のため下田の町は壊滅的な被害を受け、停泊していた軍艦ディアナ号も大破してしまった。幕府の修理許可を得て、ディアナ号は伊豆西海岸の戸田に回航中に嵐に遭って流されて沈没した。ディアナ号の乗組員は580人以上おり、ロシアはクリミア戦争の最中で他国の支援が得られず、救援を求める船の建造許可を幕府に求めた。
 船の建造を行った戸田(へだ)は天然の良港で、周囲を険しい山に囲まれているので幕府としてはロシア人を管理しやすい所であった。造船の責任者はこの地を管轄している韮山代官江川坦庵で、伊豆の船大工の棟梁たちが集められた。船の設計はロシア船員で、日本人船大工40人と人夫150人が工事を担当し、僅か100日の突貫工事で1855年3月に完成した。
 建造された2本マストの帆船は長さ20m、幅7mで、プチャーチンは大いに感謝してこの船を戸田号(ヘダ号)と命名した。日本における洋式造船の最初である。
 欧米各国と和親条約を締結して下田・箱館(現在の凾館)を開港した幕府は、洋式海軍の創設を決定し長崎オランダ商館に洋式軍艦の購入を依頼した。商館長は先ず艦船の操船技術を習得するのが先決で、その為には近代科学技術を学ぶ必要であると回答した。その意見に従って、幕府は1855年に長崎奉行所に海軍伝習所を設置した。
 韮山代官江川坦庵は相模湾から駿河湾、下田港などが守備範囲であったが、幕府の勘定吟味役、海防掛などの役職にもついていた。開明派の代官であった江川坦庵は早くから渡辺崋山、高野長英、高島秋帆、鍋島直正らと交流して西洋の情報に通じており、長崎海軍伝習所の伝習生に家臣8人と船大工2人を送り込んだ。その一人が肥田浜五郎で、この長崎海軍伝習所で近代科学技術、造船・蒸気機関などを学び、日本の造船技術の発展に大きな貢献をした。
 肥田浜五郎は伊豆国八幡野で肥田春吉の5男として1830年に生まれた。肥田家は代々“馬の医者”であったが、祖父春達の代に医者となり、八幡野神社の神主にもなった。父春吉も医者と神官を兼ね、蘭学を学んで蘭方医となり江川坦庵の侍医となる。長男は江戸に出て蘭学を学んで蘭方医となり、次男、三男は長崎に遊学して蘭学を学んでいる。浜五郎は韮山で江川家家臣と共に学び、江戸に出て川本幸民の塾生となり、次に伊東玄朴の象先堂に入門して蘭学の修業をした。川本幸民は我国の物理・化学の祖と云われた蘭学者であり、伊東玄朴は医者であると同時に当代きっての洋学者である。江川坦庵は当初から浜五郎を医者としてより、洋学者として育てようとしていたと思われる。
 肥田浜五郎は幕府の咸臨丸に機関長として乗り組んだ。帰国後は軍艦操練所の教授方となり、石川島造船所で国産初の蒸気軍艦「千代田形」を建造する。船体設計は長崎伝習一期生の小野友五郎、蒸気機関設計は肥田浜五郎で、石川島には設備が整っておらず長崎造船所や佐賀の造船所を借りて製造した。
 その後、この石川島造船所の設備を整えるためにオランダに渡航したが、幕府の方針がフランスの支援で横須賀製鉄所(当時は造船所をこう呼んだ)を建設するよう変更されたため、フランスに造船技術を学んで1866年に帰国した。
 維新政府では、横須賀造船所の造船頭兼製作頭として参画し、横須賀造船所長として海軍軍艦の建造に明治8年まで従事した。
 ディアナ号建造に携わった主な船大工7人のうち、上田寅吉は長崎海軍伝習所で本格的に造船や蒸気機関などを学び、江戸の石川島造船所に勤務し、榎本武揚や赤松則良のオランダ留学に同行して造船技術を習得した。帰国後、明治になって生涯を横須賀造船所で従事している。鈴木七助は上田と共に長崎海軍伝習所に学び、築地軍艦操練所に入り、幕府の咸臨丸渡航に船大工として乗り組んでいる。帰国後は上田寅吉と一緒に石川島造船所、横須賀造船所で船の建造に従事した。残りの5人の船大工、猪明嘉吉、石原藤蔵、堤藤吉、佐山太郎兵衛、渡辺金右衛門は、憶えた洋式造船技術を忘れないように、戸田号の図面を基に日本人だけの手で同形の船を6艘建造した。この船は土地の名前をとって「君沢形」と名づけられて幕府に献上された。その後、彼ら5人も江戸の石川島造船所で造船の仕事に従事している。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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